エピソードアイギス感想・レビュー:設定とテーマと物語とのつながりは果たしてあったのか

当サイトは一部コミュを除き全てリロード版の情報を掲載しています(休日誘い以外)。DLCペルソナで変わる合体表も対応しました。一通りの記事作成済んだかなと思うので、後は細かい点やミスなどのご指摘には対応しようかなと思います。情報提供などありがとうございました。

エピソードアイギスは当時最初の方を遊んだだけで辞めてしまった。炎上した経緯も知っていたし後追いで遊んでいたということもあったが、それ以上に戦闘面が色々としんどかった(見切りだったりHARD固定だったりペルソナ作成でレベル上がらなかったり)。というわけでまっさらな気持ちで初めてのエピソードアイギスを遊んだことになる。

ではどうだったか。実のところ、そこまで怒ってもいない。怒ってもいないが、それはゲームのストーリーがよかったとかそういうわけではなく、あっさりとしていたため、判断材料に乏しい、という理由がある。ここからは本感想へ。

目次

シミュレーションパートをなくした3は単調さが拭えない

ストーリーに移る前に、まずはゲーム本編としての感想から。

ペルソナは3以降路線を大きく変更したのは今更言うまでもない。そして3や4、5と受け入れられて言った部分には日常パート・シミュレーション部分が大きいのも言うまでもないだろう。

エピソードアイギスでは閉ざされた空間の中で物語が進んでいく。そうなると、例えば3では影時間、4ではテレビ、5ではメメントスといった「日常の中に潜む非日常」ではなく、非日常がメインとなってしまう。そしてそれをゲームにそのまま代入するとどうなるのか。それは戦闘一辺倒になるということにほかならない。

決して戦闘一辺倒が悪いわけではない。直近で遊んだ女神転生5vengeanceだって戦闘一辺倒だったろう。しかし、本作はペルソナ3の系譜である。となると、戦闘一辺倒ではない部分も楽しんでいたからこそのDLC(当時はファンディスクか)であって、そこまで考えたときに本作はいい部分を一つ消してしまったように感じてならない。

また、戦闘に関しても一つの目標というか、言ってしまえばタルタロスの階層ボスがいるだけで、大ボスの存在が最後までないのも拍車をかける。一応、ダンジョン中での難易度を途中で下げていて多少はアップダウンを意識もしていたが、どうしても単調さは否めなかった。

それこそゲーム本編ではタルタロスの途中にいる強大なシャドウというのは設定的にもゲーム的にも納得がいったが、エピソードアイギスでの途中の強敵に関しては設定的にはイマイチピンとこなかった。メリハリとして出現するだけであって、メンバーを妨害する理由が見えてこない。また、そもそもそうした強大な敵への準備、というのもモチベーションにはなっていただろう。

加えてダンジョンの変化がないのも単調さに拍車をかけていた。というのも、ダンジョンは最初こそある程度見た目が変化したりするのだが、最終的には使い回しも見えてくる。ランダム生成ダンジョンもダンジョンとしての面白さはない。なので探索もタルタロス同様作業感が強く、一方で本編であればそれはシミュレーションパートによって作業感がある程度減じていたのが、エピソードアイギスでは連続してそれをメインにすることにより、作業感を強く意識することになってしまった。

とはいえダンジョン内部で途中からダッシュしてるだけでオブジェクト破壊ができるようになったりの配慮はよかった。強いていえばだが。

設定・テーマ・物語のつながりが果たして明確だったのか

では肝心のストーリー部分。ここからはネタバレを含むので注意。

ペルソナ3のテーマは死である。公式サイトを見てもわかるように、メメント・モリ、死を忘れるなとか死を想えとか、そいうった警句として使われるもので、この言葉をテーマとしている。

ペルソナ3本編ではメメントモリというか、むしろ直接的な死の恐怖、死そのものと直面し、主人公が最終的には育んできた絆の力で立ち上がり、そして「命の答え」を得た。

ではエピソードアイギスではどうだったのか。そもそもペルソナ3リロードでは主人公は人間である。そして、エピソードアイギスのアイギスは見てのとおり機械。本編では機械の身であったアイギスが、主人公や仲間たちと一緒に過ごしていくなかで、「生きる」ことを知る。

エピソードアイギスの物語は、生きることを知ったアイギスにとって、死という別れが辛かったことが起因し、そしてそれが原因となって全てが始まる。

が、ここで疑問が生じる。そもそも、アイギスだけが原因ではないはずだ。ゆかりを筆頭に美鶴もそうだ。真田とか天田とかはちょっとよくわからないが。あと風花も。風花はシナリオの犠牲になった感をひしひしと感じるがそれは置いておいて。

最後の最後にアイギスがワイルドである理由をゆかりが語っている部分があるが、「生きていれば、何だって変えていける」とアイギスが感じられるようになったのは彼と過ごしてきた時間ではく、この3/31の過程においてではなかっただろうか。むしろ、そうした気持ちがなかったからこそ、アイギスは別れも告げられなかったのではないだろうか。仮にその気持ちが本当だったとしても、何だって変えていけるの中には、最も変えたかった彼の死という事象は変えられないのは皮肉ではあるが。

と考えると、なぜアイギスがワイルドに目覚めたのか。というゆかりの疑問は至極もっともであり、ゆかり自身は納得したようではあるが個人的にはまるっきり納得できない。加えて、「命のこたえ」に関して言えば、絆がもう一つの答えなの?という言葉もあったが、それならなおのこと、本編の主人公とはなんだったのか、となってしまう。

つまり、主人公は絆の力を持ってしてニュクスを封印できるほどのユニバースの力を得た。ということは、彼自身が死という答えを得る前に絆の答えを得ているわけであって、であれば同じような答えを得たであろうアイギスは死なず、なぜ主人公は死んでしまったのか。答えが2つあり、主人公が死をわざわざ選んだとでも言うべきなのだろうか?

と、不可逆の死に直面させること自体は決して悪いことではないとは書いておきたい。事実、自分もメインヒロインの死が描かれている作品で、今でもその作品が好きだったりもするし、そもそも主人公が最後死んでしまうお話でも印象に残っているものもある。だから、結末自体はむしろ死を題材にしているのであればしっかり描ききっているのであれば、全く問題ないどころかむしろ面白い作品にだって十分なる。

エピソードアイギスではそうした不可逆の死の後を描いている。描いている・・・のか?と疑問に思ってしまうのが最大の欠点だろう。確かにペルソナ3の登場人物は、ゆかり、天田、真田、美鶴とそれぞれ二人称の死(家族など親しい者の死のことを指す)を経験しており、順平はチドリでそれを経験した(後に追加で復活することになったが)。コロマルにも神主の死亡という経験があったりもする。

だからそれぞれがそもそも死に対する耐性を持っているので、真田の最後の俺は否定したくないだったり、天田の今を生きようという現在の生への肯定がでてくるのはそれほどおかしいことでは実際ないだろう。一方順平はフェス時空ではチドリが復活しており、どっちつかずの態度を取る。ゆかりは父親の死に直面していたが、恋愛感情を抱いていた主人公相手にはより執着を見せる。美鶴は後悔からゆかりに仲間することを決め(ならもっと対話しろといいたいが)、風花はおそらくシナリオの犠牲になった。もちろん、風花だけが二人称の死を経験していないこともあるかもしれないが、どちらかといえばオペレーター枠だから、という都合でしか見えない。

というそれぞれの立場が描かれているのだが、いかんせん、後日談が後日談過ぎて、どうしてそのような態度になっているのかがわからない上に、なら主人公への未練という話はどこにいったんだ・・・?という疑問がどうしても拭えない。

そもそも、ストーリーが進行する過程で真田や天田は主人公の死を現在の肯定として捉え直したわけではないようだから、その点ではこの二人は今回の設定上では入り込む余地がなかったのではないか。仮にあのような態度を取るのであれば、最初からもっと主人公を匂わせ、過去編でも主人公の死の周辺を描いて、到底受け入れられるはずのない仲間の死に直面したけれど・・・というストーリーテリングになって然るべきだろう。一方で真田・天田の両名は荒垣の死でペルソナの第二覚醒を起こしているのだから態度としては決しておかしいものではないとは思うものの、それならなおのこと、未練の世界に残された理由がよくわからない。

美鶴・風花に関しては態度が宙ぶらりんになっており、特に風花はひどい。徹頭徹尾舞台装置となっており、なぜアイギスを信用して決めたことなら、と他人任せにしたのかもわからない(風花にももっと意思表明してほしかった)。美鶴は次で触れたいので先に順平からだが、順平は本編同様自分が一番怖いというのが変わらず、別にそれ自体を批判するつもりも毛頭ない。ただ、順平が同じ態度を取るのであれば、未練の世界に取り残す必要はなかったのではないか。

美鶴は父親の死の経験において、ゆかりに救われた部分があったから、という最後の選択自体は構わない。ただ、それなら道中ゆかりにもう少し寄り添ってやってもよかった気がするが。もちろん、ゆかりが風花にもそっけない態度を取り、彼の匂いのするものを避け、遠ざけることによって前を向くと無理やり自身を納得させていたのであるから、そこに対して踏み込むのは美鶴にはできなかったのかもしれない。けれど、それなら美鶴自身のときはどうだったのだろうか。美鶴だってゆかりに寄り添ってもらえたのに、そして今回そのチャンスがあったのに、ゆかりを肯定するだけの立ち位置になってしまったのは少し悲しい。いっそ、ゆかりにはもう一度いったら大事なものの死をもう一度経験することになるかもしれない、私にはそれが耐えられない(お互いに)とかそういう方向に行ってほしかった。

ここまで考えてみても、ゆかりがやはりあの世界においてワイルドになるべき資格があったように思えてならない。むしろ、ゆかり以上に主人公に未練を抱いていたキャラはいなかったのではないだろうか。それとも、アイギスの未練、要するに彼を直接送ってやれなかったことが大切だった、ということなのだろうか。

アイギス自身が彼の死という事態を到底受け入れることができず、ゆかりのように未練がましく前を向くことすらできず、心すら分化させてしまった。確かにゆかりの態度は彼女が言っているように前を向いたものではないのは確かではあるが、それでも最後、彼との別れをアイギスとは違い、直接会うことによって実現させている。

筆者自身がゆかり贔屓ということもあるが、これにはどうにも納得がいかない。両者とも主人公に対して強い強い未練があったのは確かで、一方は受け入れることができなかったから心を分化させるまでに至ってしまい、とてもではないがそれが無限の可能性であるワイルドとの親和性があるとは思えない。なんならゆかりへの当てこすりのようにすら感じてしまうのは被害妄想だろうか。

もしかすると、ワイルドに目覚めたことと未練で作られた世界が別・・・といいたいところだが、そうであるならメティスの説明がつかなくなってしまう。メティスはワイルドになる過程で生まれたもので、アイギスの願いを叶えた存在とも言えるだろう。ならなんであんな行動をしたのかとか色々疑問に思うが。

そのメティスに関してもよくわからなかった。アイギスの心部分であって、アイギスが仲間を守ろうとするのであれば、むしろそちらがより強固に色濃く出るべきではないだろうか。仲間たちを殺そうとする動機が判然としない。やはりあれは舞台装置でしかなく、こうしたらなんか面白そうだよね、と設定をロクに詰めなかった結果のように見える。

そもそもメティスの存在によってアイギスが成長した、というストーリーラインがピンとこないのもあるだろう。メティスが核心めいたことを言ってはたと気づく。のだが、過去のことばかりを楽しそうに話すとか、そういったことを言われて気づくのはいいにせよ、”彼”の話題を避けて、透明化してしまった過去話は、果たして本編のファンディスクという形で必要だったのか。むしろ、メティスのその指摘により、アイギスやゆかりは彼を遠ざけていたはずなのに、そうした彼の匂いがするところが彼女たちにとってかけがえのない・大切な思い出であった、ということを直視しなければ、楽しそうに過去を話すという指摘も陳腐でしかない。

そのほかに物語の欠点としてはアイギスの動機も不透明な点もあげられる。特に、心が分化してしまったせいでエピソードアイギス中で意思表明もなく、結局アイギスの本音というか、機械に戻ってしまいたいと思うほどの激情は一体どこへいってしまったのかとわからなくなってしまう。そして、アイギスの機械に戻りたいという気持ちを覆すほどの経験が、本編中であったようには思えないのだ。

それこそ、彼自身はまだ意思として生きていて、未練で作られてしまった世界を認知し、なんとか干渉して未練ではなく前を向く(これは便宜上。僕自身としては未練を断ち切ること自体がいいと思っている価値観ではないが作品の中での言葉遣い)ようにした、というお涙頂戴のストーリーテリングであればまだ納得はできた。

結局のところ、エピソードアイギスはキャラクター同士の対話があまりにもなく、主人公への未練という部分も感じられなかった。重ねてだが、ボス撃破後の回想はなぜか主人公とは関係のない過去の話になってしまった。これでは、未練の世界というにも辻褄が合わないのではないだろうか?

物語を見ても、主人公の死についてあれやこれやとするようなお話ではなく、主人公はもう完全に死んでるよ。としか言っておらず、過去に戻ってやり直せるかも・・・というのも、別に戻ったらいいんじゃない?と思ってしまう。一度賽は投げられてしまったのなら、それを動かすことはダメ、ということなんだろうか。

ただ、それをいうならワイルドという設定自体、無限の可能性があり、なんにでもなれるしそれこそニュクスであったり4や5でもそうだが、運命のようなものを否定しているのだから、過去の否定だってワイルドによってなされてもそうおかしくはないはずだ。一体、死の運命を否定したことと、過去の運命を変える(ことはできないかもだが)ことの差はあるのだろうか。むしろワイルドが無限の可能性である、ということなのであれば、過去に戻って運命を変えることすらワイルドの能力の一部ではないだろうか?と思えてならないが、ワイルドには現在のみという制約でもあったりするんだろうか。

が、現在のみの制約、ということで考えると、そもそもシャドウって時を操る神器のために研究されてたし、なんなら時空の狭間で過去にも戻れるんなら、過去の事象への干渉だって可能ではないか、と思ってしまうが。仮にそうだとしたら、美鶴の主張は、シャドウ研究の失敗によってタルタロスが起こってしまった悲劇を再度引き起こすことは、たとえ彼の死を覆せる(可能性があった)にしてもそれはできない。という方がよほどよかった。そのうえで主人公を助けたい、という美鶴のわがままな部分を描写する。それこそ美鶴のコミュでは、許婚を否定するという、仕方のない・どうしようもなかったことへの抵抗をしていたのだから。まぁ完全に妄想の類というか、美鶴全く主張がなかったのでびっくりでしたけどね。美鶴の性格的にあそこまで何も言わないってことあり得るんだろうか。

さらに頭を悩ませるのはジョーカーの存在だ。ゲスト参戦だ、という話なのであればいいが、どうやらエリザベスも認知しているようだし、撃破後の会話でも同じ能力を持っていたけどなんだったんだろうね、という会話がある。欲望でうんたらという会話が撃破後にあったが、ともあれ、欲望ということなのであれP5の面々がきたっておかしくないのに参戦したのはジョーカーだけだ。時系列的には未来のお話である5に、過去である3の世界に干渉できてしまうのだとすれば、それこそ過去への介入ができてしまうという証左ではないか。なぜ、エリザべスにとある世界での・・・というような完全なif設定にしなかったのか。はっきりってこれはお粗末にもほどがある。挙句の果てにはエリザベスから「絶対に起きない出来事」なんてない、という言葉がでてきてしまう始末。これがどのように問題なのかは後述している。

話しを戻す。エピソードアイギスでワイルドになったアイギスは、結局のところ無限の可能性という意味を示せていない。いや、機械から人になる物語を描いたことこそが今回の命のこたえであり、ワイルドになった理由だという向きもあるかもしれない。しかし、機械から感情を得てというストーリーラインは本編でやったことではないか。今回敢えてもう一度ファンディスクで繰り返した意味はなんだったのか。生を知った機械が、死を経験した結果機械に戻りたくなったが、生きている”現在”を肯定することによって再び生に戻る。ということをするにはあまりにもアイギスの心情が希薄すぎる。

また、機械が生を知って人になるというのは別に本作に限った特別なフレームワークでもないし、加えていうならペルソナ3のメンバーはそれぞれ二人称の死をすでに経験している。言い換えれば、アイギスが生から死を見つめたという経験はすでに彼・彼女たちは複数回経験している。にもかかわらずアイギスが特別視(ワイルド)された理由とは一体なんだったのだろうか。

やはりアイギスだけがというのが設定として全く納得できるものではない。それに未練が形作られた世界だというのであれば、特別課外活動部の全員でワイルド、というような設定のほうがよかったんじゃないか。

不可能を可能にするワイルドという力。P3主人公は絶対に勝てないものへ封印という形で不可能を可能にし、アイギスは機械から人になるという奇跡を起こした。しかし、ワイルドではない他の面々は結局”現在”を結果として肯定するしかない。これはワイルドでないことの残酷さというのに目が向かざるをえない。

ワイルドではない他の面々は”現在”を結果として肯定するしかない。例えばそれがニーチェ的な永劫回帰、現在の強い肯定として描きだされているのであればよかったと思う。ただそれがテーマとして描き出されているようには思えないし、真田にしろペルソナ5の追加シナリオにせよ、諦めからなる現在への肯定に思えてならない。積極的な現在への肯定ではなく、消極的な肯定という意味だ。

重ねてにはなるが、ワイルドは運命を運命としてではなく、無限の可能性を持って退けるに至る。では、ワイルドではない者たちには一体なにができたのだろうか。彼の死という事象だけでなく、世界中の人びとの死を求める意識を変革も、対処療法的な形こそできたが、それも一過性のものにすぎない。エピソードアイギスでの現在の肯定からは、むしろ変えられないであろう過去を自身を形作ったものとして(欺瞞的に)肯定し、言い換えると過去の事象を変化させることにより、現在の変革を恐れることによる消極的な肯定に見えてしまう。彼らはワイルドとは違い、無限の可能性を持ってなにかを変化させることができないということを暗示しているのであれば、なんともワイルドになれなかったキャラクターたちが不憫ではないか。

ワイルドではない誰かが、不可能を可能へと変える。言い換えれば、仕方のない現在への無力さの肯定ではなく、自身の無力さに打ちのめされながらも、彼と築いた思い出・絆で不可能かと思われた事象をすら変革する。そういったストーリーラインでなければ、ワイルドでない誰かはひたすら無力であり、仕方のない現在だと肯定するしかない作品1となってしまうように思えてならない

それが主張であるならば問題はない。しかし、本編では不可能を可能にした主人公や、もっと言ってしまえば本作はジュブナイルだ。ジュブナイルであるはずの本作が、ワイルドではない誰かは変える力を持てない。だから現在を肯定している(ように少なくとも筆者は見えてしまう)、いやするしかない。過去に戻ったところで倒せる手段も見つからないし、彼は自らの死というのを命のこたえとして引き受けてくれたが、助かった我々はそれを知った上で”彼の選択である”という、都合のいい自身の弱さへの肯定とし、現在を受け入れて”しまう”。これが果たしてジュブナイルと言えるだろうか。

ワイルド周りの話はこの辺にしておいて、また設定の話に戻る。インタビューも読んだし本編でも語られていたが、ペルソナとシャドウが同一というのは構わない。そしてそのシャドウ(抑圧下にあったもの)、要するにエピソードアイギスでは主人公への未練が形となった結果があの影であり、というのも問題ない。問題ないが、だとしても過去回想がペルソナに目覚めたとき、というのはしっくりこないにもほどがある。というかペルソナに目覚めたときではなく、死をテーマにしているなら主人公の死への対処であるべきだろう。ペルソナ覚醒を見せられて、彼らの未練によって作り出された世界にどのように寄与したのだろうか。

ただ、シャドウが抑圧下で、という話はまだしも、まだその先に残ってるやつがいるんじゃないかででてきたエレボスとは一体なんだったのだろうか。エレボスは主人公を救えない理由として急にでてきたとしか思えない。エレボスがいなければゆかりは過去に戻るだろうし(というかあそこですんなり諦めるのはゆかりらしくないとも思うが)、なんならエレボスさえいなければ封印必要ないよ、というエンドにだってできたのではないか。

死からの復活をご都合主義的なものと捉えたのかもしれないが、タカヤにしろ磔にされた主人公にしろ、偽メシアであったタカヤを退けたメシアである主人公というか、そもそも主人公はメサイアを使えたではないか。死を想った主人公が、全てを死で染めないために、自身の命を賭けた封印で、しかし絆の力は一方通行のものではないはずだ。

であればこそ、絆の力を使って不可能を可能にしたワイルドの能力者であった主人公が、今度はその絆のもう片方の側――特別課外活動部との特別な絆によって復活する、というシナリオでもよかったのではないか。絆の相互性により、そしてメシアであったはずの少年は今度は絆を結んだ側によって死からの復活(例えばそれを心だけの救済にしたってよかったはずだ。ゆかりファンなので肉体ごと復活してほしいが)だってできたはずだろう。

エレボスとの戦闘は恐らくだが死のポルノグラフィ化への懸念なんかも表明されていたように思えるので、死を想え、という意味で伝えたいことがエピソードアイギスで語られた不可逆性のある死と繋がっているというのもわからなくはない。わからなくはないが、その上で本作で描き出されたそれは説得力のあるものではないように思えたし、むしろ主人公の死が決定づけられてそれをファンディスクという形で表明するのであれば、充実した死を主人公に望むのだとしたら、プレイヤーにも主人公との決定的な別れという体験をもっと切実に行なうべきだったのではないだろうか?

主人公が生きているのではないかとミスリーディングさせ、ロクにキャラクター同士が対話もせず、主人公の死からたったの数ヶ月しか経っていないあの世界において楽しそうに”過去”の話をしているのにもかかわらず、そこに彼の匂いはない。別れが本編でしっかりしたのならともかく、最初はエンディングは解釈次第ということを言っていたようなら、それは本編の見せ方が間違っていただろう。結局のところ、筆者がエレボスから感じた死のポルノグラフィ化は本作にも当てはまってしまうように思えてならない。

徹底的に彼の匂いを遠ざけ、漂白された”未練の世界”が一体どの程度未練の世界だったのか。また、重箱の隅をつつくような意見になるが、主人公への未練でできた世界なのはいいとして、なら荒垣は?とか思ってしまうが。荒垣の死には未練がなくて、主人公の死に未練があるというのは、真田や天田はともかく(決着をつけているので)ちょっとなぁ、とか思ってしまう。それならいっそのこと、3Rの世界の最中に経験した死そのものへの未練とかしたほうがよかったんじゃないかとか考えるが、それはそれで話が壮大になってしまうので致し方ないと見るべきか。

他にも色々とあるが、画像もなしに長々と文章が続いてしまうのでこのあたりにしておきたい。最後になるが、冒頭の怒っていない、というのず本音であるのはもう一度伝えたい。むしろ怒るに足るだけの情報量不足すぎて、なんでこうなったの?という部分が先行しすぎてしまった。

ところで真田の現在の肯定を見るとペルソナ5の追加シナリオを思い出す。落とし所として、現在を、自分を作り上げた辛い過去だって、というのも別にいい。いいのだが、ゆかりの心情であったり、5の”優しい”世界であったり、否定するのがキャラクターが考えた結果というよりかは、むしろ舞台装置的な役割のように感じてしまう。大切な人をなくして、それぞれがそれを取り戻すチャンスを得たにもかかわらず、それが”今”の否定になるから・・・と。ここもよくわからない。やり直せるチャンスがあるならやり直してなにがいけないのだろうか。”今”を形作ったのは確かに過去かもしれないが、強い後悔がない今になるのがいけない、起こってしまったことはありのままに受け入れるのだ、という思想の根源がわからなかった。どうしようもないものは受け入れろ、という思想であるなら、本編のワイルドで起こったニュクスという絶対的に勝てないものへの、封印という形ではあるが、勝利というのも茶番になってしまう。結局エピソードアイギスがワイルド能力の無限の可能性をすら否定しまったように思えてならないのが残念だ。

  1. 「仕方のない現在だと肯定するしかない作品」というのは、真田にせよ天田にせよ、自身が選択して過去へ行く、というのは彼が選んだものだとして否定する。しかしその肯定からはもう一度同じ「運命」だったとしても、それを選ぶという力強い肯定とまでは思えない。天田は尊敬していた人が選んだから仕方がない、真田は納得できなくてもと言っており、加えて「無駄な過去など、1つもない。今の俺にとって…全て、必要なことだった」と言っているわりに、アイギスのなにが起こったかを見るという提案にのっかってしまっている。加えて、筆者の主張としてはそもそも真田が本当にそう思っているなら未練の世界に取り残されているのは不適当だろう。未練があるということは、全てが今の俺に通じているというのは空虚な言葉であり、運命愛の態度を表明するには不足している。仮に運命愛ということを真田の役回りで主張させたいのだとしたら、未練の世界という設定そのものが成り立たないだろう。加えて彼の選択だから、という主張は自身の運命を自覚的に引き受けているようには見えない(過去に行ける、という前提が現在あるからそこの主張の正当性は難しくなるが)。だから、真田の言う肯定であったり、天田もそうだが、一見肯定してるように見えて真に運命を引き受けているのではなく、さらばもう一度、という強い肯定には見えない。 ↩︎

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 概ねの感想としては同じですが、単調さの拭えない戦闘に関しても、本編シリーズのような日常パートをわざわざやる必要が無く戦闘に専念できると言い換えれるので一長一短かなと思いますね。

    特にペルソナシリーズは周回でやり込んでると、一度見たコミュを何度も見る事になって、早送りしても時間がかかるので結構な苦痛なんですよね。

    なので本編のシステムを補完するような戦闘以外の育成要素や、ダンジョンの合間にもっと重要なストーリーを差し込んだり、一工夫があればモチベーションが維持しやすかったのかなと思います。

    ただ原作のFES版といい、本編でのリソースを流用して作ったおまけパートなので、技術面でもコスト面でも、新しく何かを増やすのは中々難しかったんでしょうね。

  • エピソードアイギスは私も色々と思うところが多々ある内容でした。
    でも人は変われると信じて希望を持ち生きていくというのは結構好きです。

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