感想の前に
ネタバレしかありません。ストーリー最後まで見た前提でお話が進んでいきます。どこどこで◯◯がありました、というようなのもないので、そこだけ注意。タイトルにもネタバレ感想ってつけといたのでこれで問題ないでしょう。
ちなみにほぼ文字です。文字文字文字文字
テーマは結局なんだったのか
1のテーマは明快?でした。明快というか、1のときは事前情報を調べていたので、「棒と縄」という安部公房のお話を軸に考えて、そこに繋がりというキーワードが散りばめられていた形です。
棒と縄に関しては、非常に簡単にいうと棒は暴力、縄はつながり、というので本作だと印象的に使われています。例えばヒッグスそのものを棒と称していることもそうです。
にも関わらず、本作は戦闘がちょっと多くなったようなイメージです。特にヒッグスとは結局棒で制したわけで、ヴォイドアウトという個人的には禁じ手とも思われるような棒の否定をしておきながら、そうか殴って言うことを聞かせるのか、という。ちなみに禁じ手というのは、つながりを出すのに棒、暴力の明確なデメリットを出すのは禁じ手じゃないか?という意味合いですね。
もちろん、ヒッグスの言葉どおり、彼は棒でしかつながることができなかった、言い換えれば棒を縄だと勘違いしていた人間です。例えば彼自身は結局何万年もの孤独に耐えきれず、とうとう死ねると思うときに、契約した。人間は絶滅するべきだ、というのもまぁアメリの影響がまだ残っていたとも考えられますが、何万年もの孤独の後にそれを選択したのは、復讐という動機だけではなく、棒でつながっていた、前作では棒が縄だったという落ちでしたが、彼にとっては棒が棒のまま使っているのに、それを縄だと思い込んでいた。俺が一番じゃないとダメだとか、フラジャイルへの執着もそうですね。もうちょっと本編でフラジャイルへの執着がわかりやすくだしてもよかったのかなとも思いますが、まぁ最低限ここはわかるからいいかなとは思わなくはないですが。
さて、棒を縄だと思い込んでいるという話を出しましたが、それの証明として、ヒッグスとのイベントバトルではバトルギターでのセッションシーンがあります。そのあと結局ギターを近接攻撃の道具とするんですが。
そもそもギターを棒として使うヒッグス。もちろん、ギター自体は単独でしっかりと演奏できる楽器ではありますが、セッションとあるように、ヒッグスはつながりを求めていた。なにより、フラジャイルに裏切られたというのが彼の動機の、恐らくサムへの復讐心の根源でもあったようですし、と考えれば、ギターが棒になったというのは、本来縄であるはずなのに、棒であるしかできなかったというヒッグスの、あくまで一般的に考えたら歪な繋がり方を示していると考えられるのではないでしょうか。
※わざわざ一般的にと書いたのはそのままの意味です。一般的は一般的であり、そうじゃないつながり、コミュニケーションしかできない人もいるでしょう(是非の話ではない)
実際、セッションが終わったあと、ヒッグスから100いいねをもらいます。また、ラストストランディングを熾そうとしているヒッグスとの二人きりの戦闘中で、もうすぐつながるぞ、という彼のセリフがあります。彼にとってはもはや、人類全体を巻き込まない限りつながれなかった。一方、サムはそういったヒッグスに対して誰ともつながるな、と激情を露わにします。バンドは解散だとかも。そんくらいもうちょっと作中でも喋ってくれればよかったのになとか思うんですがまぁそれはいいでしょう。
さて、このような棒そのものが縄として機能しているヒッグスでしたが、彼の行為が棒でしか繋がれないからといって、棒であるがままがいいのかと言われるとうーんなんだったのかなと。
前作の話でいうと、間違いなく棒である、銃そのものが実はサムにとってはつながり、縄であったというエンディングでした。それ自体の賛否は自分の中ではあるんですがそれも一旦おいておいて、前作では「ゲームやエンタメが戦争から逃れられないこと」という問題意識は多少は感じることができたものの、本作はどうだったのかな、という。
そもそも繋がりというワードが頻出する割に、いまいちそれが感じられなかったのもあります。というのも、なぜだか登場人物が印象に残らないんですよね。いやニールとかキャラ濃かったじゃんとか色々あると思うんですが、トゥモロウにしろレイニーにしろ、それこそフラジャイルやタールマン、チャーリーといった面々、印象に残らないんですよね。ドールマンも基本的に道中一人で喋ってるせいでつながりを感じられません。

公式サイトだとこんなふうに全員仲良くしていて、映画の終わったあとのおまけである、悪役も含めてお疲れ様でしたみたいなことをしている絵面がありますが、うーんそうだったっけみたいな置いてけぼり感を感じます。
言い換えれば、本作はつながりがあるはずなのに、孤独なんですよね。サムは結局死んだルーしか見えていなかった。フラジャイルもサムを見ているようで実は自分のことしか見ていなかったんじゃないか。サムを立ち直らせるのが目的かもしれませんが、それよりももうすでに死んでしまった自身の思い出づくりの側面がなかったとは僕には思えません。もちろん、ルーを守れなかった自責の念、本編中でもタバコを自傷行為として触れられていますが、フラジャイル自身もつながっているようで孤独、内発的なもののような。いや別にそういう動機もいいんですけどね。なんかちょっと無理やりな論調になってしまったかもしれません。
いずれにせよ、印象が弱いと思ったのは事実で、特にサムが喋らなさすぎるし、プライベートルームに戻るときにレイニー起点で問題とか出してくれはしますが、それでもトゥモロウにせよレイニーにせよつながりは希薄。ハートマンもなにか活躍したっけ。デッドマンがなんなら一番活躍してたかもしれない。
ニールとルーシーに関しても正直良くわからなかったです。この二人を描くことでなんの決着をつけたかったのか、いまいちピンときていません。
なんならこの二人に焦点が当たりすぎて、ルーシーとサムのつながりが希薄すぎるし、いやルーシーがなんでニールに完全に惚れなかったの?っていう。まぁニール視点だから当然だろうと言われれたらそうなんですが、よくわかりません。あと前作もそうですけど、ニールもじゃあなんかもうちょい棒で殴る前に対話すれば?っていう。本作は棒の否定というか、「ゲームやエンタメが戦争から逃れられないこと」というのがあるのなら、棒でいきなり殴ってくるキャラ、前作のクリフもそうですが、もちろん守るという動機があったり残留思念とかなのかもしれないのはわかるものの、なんだかなぁという。
死は別れじゃない、はテーマだったのか?
というわけで、結局テーマがよくわからなかったです。別にテーマがなくてはならない、ということを言いたいわけではないのですが、本作が伝えたかったことは結局なんだったのか。棒でしか繋がれない人間がいますよ、ということなのか、死は別れじゃない、ということなのか。
一方、死は別れじゃないという言葉についても疑問が残ります。なぜなら、トゥモロウ、ルーが生き残ってしまっているからです。いや死は別れじゃないって言わせといてそこは生き残るんかい、っていう。
デッドマンだって、その言葉を発しますがサムに干渉できています。干渉出来てしまっている時点でこの言葉の陳腐化は防げないでしょう。フラジャイルに関しては最期の力を振り絞って、カーのままでもルーをサムのもとに届けてくれた、ということはあるはあるかもしれませんが、しかしそれでも死は別れじゃないというのが結局なにが言いたかったのか全くわかりませんでした。理解不能と言い換えてもよいです。
一言しておくと、死は別れじゃない、というのは自分にとって受け入れがたい思想であるから、というのはあります。この旅はルーの死を乗り越えてほしかったからみたいなのもありましたが、ああいうのもとても嫌いです。これには僕が昔やったシナリオゲーも関係してくるのですか、そのことについては今はキングof脱線なので辞めておきます。
さて、この言葉を考えてみたとき、まず大きな懸念が一つ生じます。というのも、デッドマンはまだいいんです。彼は満足してビーチがあることにも喜んでいましたから。一方、フラジャイルはどうでしょう。フラジャイルは棒によって死にました。言い換えれば、棒を繋がりとして描いたはずの前作のラストだったにもかかわらず、ヒッグスが棒でしかつながることを知らなかったとはいえ、その棒――暴力によってフラジャイルは死にました。
にも関わらず、死は別れじゃない、と彼女の口から言わせた意味はなんなのでしょう?僕には到底わかりません。だから、全く理解不能と上でも書きました。いやなんだったんだろう。デッドマンならギリギリわかるんですが、死は別れじゃない、暴力によって奪われても、あなたとつながっているから。
つながっているから、というのもここでは恐らくカー、魂という意味でしょう。ただ、ゲーム中でもちょっと細かい部分忘れちゃいましたが、肉体と魂は同一だ!みたいなこといってたのに、こういう抽象的なところでは都合よくカーのつながりなのか、という。事実、フラジャイルの最期のシーンはモノクロになっています。他にもモノクロのシーンありますが、例えばサムが帰還しようとするシーンもモノクロです。最初のほうでマゼランが航行中にサムとタールマン、フラジャイルがモノクロになっていたのがちょっとわかりませんが、いずれにせよ、モノクロ=カーだという認識で間違いないでしょう。
そのようにカーでのつながり、というのは、いや肉体も不可分でしょうとなるんですが、こういうところに持ち出してくるのはシナリオ展開上でズルいと思います。それいったらデッドマンの存在全否定になってしまうのですが、カーとハーは~といいつつ、カー優位だというのがにじみでているようです。
デス・ストランディングの世界では、一方で、BTと呼ばれる存在がいるわけです。ネクローシス化(肉体の壊死)することによって、魂、カーが変える場所を見失ってしまうとBTになります。この時点でも死は別れじゃない、ということではないと思います。死は別れじゃないならBTという設定そのものが陳腐化するのではないでしょうか?別れじゃないのだとすれば、どんな死に方だったとしても、あの世に行けるはずです。
ニールはネクローシス化があまりにも早かった。つまり、彼にとってあのときの死はあまりにも未練が強すぎた結果、帰るための場所、肉体に一刻も早く戻らなければならなかった。言い換えれば、ニールにとっては当然のことながら、ルーシー、ルーを守るためには肉体が必要だったからだと捉えることができます。それほどの想いの強さが彼のネクローシス化の驚異的な速度だったと言えます。その後はサムがルーシーの遺体を運んだのを見たので、一旦はそこでサムに託したのだと考えられます。その後ずっと死者の世界にいてルーを待っていたのかがよくわかりませんが、時空のねじれがあると考えればまぁギリギリ許せます。
今ニールの話題を出したのは、結局、死は別れだからこそ、ニールは未練が強かったんじゃないか。ということです。デッドマンのような特殊な干渉能力を持たない限り、死は別れです。ニール自身がそれを証明してしまっているのではないか。
では結局、死は別れじゃないというのはどういった意味だったのか。やっぱり僕にはわかりません。前作よりもストーリーがわかりやすくなった、というのが感想やレビューなどで多く見られましたが、僕個人的には却って1よりもわかりづらい、というか明確にわからなくなってしまいました。
1はつながりを軸に、人と物とのつながり、棒と縄について、というのがよくわかりました。銃が縄であったというのは、関わり方次第で、棒も縄にすることができるのだ、というメッセージです(それ自体の賛否は以下略)。
アメリとの強制的なつながりから、自由なつながりになるのも、つながりすぎていることへの忌避感というか、縄を一般的には肯定はするものの、アメリのような上位ビーチ持ち、強制的なつながりは絶滅へとも至ってしまうというような結末など、こちらのほうがまだわかります。
繰り返しにはなりますが、2はその当たりが全くピンと来ません。どれを言いたかったんだろう、どの話がしたかったんだろう。恐らくこれは、先述したキャラクターが印象に残らない、というのもあると思います。今作はつながっているようで――DHVマゼランで生身の仲間たちとつながっているように見えて、サムはルーで手一杯。前作同様寡黙なので、彼が本当はなにを考えているのかは推測するしかありません。つまり、閉じています。
フラジャイルも先述したように。トゥモロウとレイニーはお互いに歩み寄っていて、その描写が描かれてはいたものの、それはサムとの関わり、つながりではありません。だから、希薄に映ってしまうんですね、サム視点のゲームなので。
そのトゥモロウにしても、出会いがぬるっとしていたので、ドラマチックじゃなかったのもありますね。これは意図的だとは思うのですが、どういう意図があったのかはわかりません。謎の空間で、もうちょっとフラグみたいなの立ててあげてから現実世界にきたらわかりますが、そういうのもなかったので、なんなんだろうなという。
トゥモロウの捜索シーンも、サムが口下手なのもあるせいか、その後の絡みも少なめ。トゥモロウはあのときの言葉があったから、みたいな印象的なシーンにでもなっていればまた変わった気もするのですが。
「 繋がりすぎというか、例えばスマホのAIが僕におすすめしてくるような、決められた偶然性というか……それが少し怖いと感じています。人生は、予期せぬ出会いや発見といった偶然の連続で彩られていくものだと思うんです。ネットやデジタルが全てを誘導し、決められた人生になってしまうのはどうなのかと思うんです。」
という話が小島監督からでていましたが、トゥモロウにしても予期せぬ出会いであったり、そういったことを意識しすぎた結果、逆に物語として無味無臭、薄味になってしまったのではないか。ドラマチックに描かないことを徹底しすぎてしまったせいで、面白みのないストーリーになってしまったのではないか。
一方で見せたいシーンは遊んでいたようにも思います。トゥモロウの戦闘シーンや、パシフィック・リムみたいなノリノリバトル。いやパシフィック・リムみたいなのかはわかりませんが。
ただああいうノリノリのシーンとのギャップもありますね。あえてドラマチックに描こうとしない。そう考えてみると、死は別れじゃない、見守っているよというのは、ハー、肉体同士のつながり、フラジャイルとのキスシーンのような直接的なつながりだけでなく、つながりすぎない、死は別れじゃないとわざわざ言わせたようなつながり、ひとりじゃないと思ってくれるだけでもいい、といようなことだったのでしょうか。
とまで考えて、仮にこれがあっていたとしても、自分にはよくわかりませんでした。
ニールとルーシーはなんだったのか
上でも軽く触れましたが、ニールとルーシー、結局なんだったんでしょうか。あの二人の描写も僕が子どもすぎるからなのかよくわかりません。
ルーシーは昔ああいうことされたのにニールといい仲になったのはなんだったんでしょうか。最初平手打ちから始まって、でも置いてかれて死にかけたのは事実です。間がかなり省かれているから、結果だけでいいでしょってことなんでしょうが、僕はちょっとルーシーの気持ちが全くわからなかったのでうーん。
ニールがルーシーに惹かれる、運命的なものだと感じるのはまだ理解はできますが、ルーシー側の視点からだと全く理解ができないんですよね。ギャルゲー脳だからでしょうか。映画あんまり見てないので。ピアノ・レッスンのオマージュとかそういうお話なんですかね?ピアノ・レッスンにはどうやらサム・ニールという俳優さんもでていますし、これを偶然の一致とするのは考えすぎでしょうか。ピアノレッスンは見たことないので内容のお話はできません。
あとこの二人の話が多すぎるせいでサムの印象や現代の登場人物の希薄化にもつながっていると思います。この二人のお話をいれた意図がやっぱりわかりません。わからないので、恐らくこうなんじゃないか、というのも言えません。いやほんとわからん。なんだったんだろうあれ。
ルーを守ってくれたのはニールだったけど、ニールは自分の子供でもないのにルーシー、愛した女の子供だったから死者の世界でも守ってやったんだ、ってことでしょうか。うーんやっぱりよくわからない。誰かいい感想お待ちしてます。
ゲーム面についてさらっと
では最後にゲーム面について。配達というゲームを遊ばせるクオリティにまで持っていったのは、オープンワールドがお使いゲーと揶揄されているのを逆手に取ったな、と1は少しだけ感心はしました。
一方2はどうでしょう。戦闘要素が増えた一方で、サムは普通の人間なので、アクションが増えたわけではありません。武器はちょっと多彩になっていますが。ただ、戦闘をやらせるにしても、L2押しながらの回避とかありますが、別に面白くはないですね。むしろさっさとゴリ押しして倒すのが吉。
特に強い敵は大型BT召喚しないとやってられないし、微妙に敵が硬かったりも。加えて、国道走ってるときにバイクに絡まれるのは頭を悩ましました。そんなに多かったわけじゃないんですが、いや国道なんのために走ってるのよ・・・という。あんまりおもしろいアイディアじゃないですねあれは。あと国道近くにブリガンドとかいるのも好きじゃないです。
しかも、今作MPバレットっていう便利な弾薬ができちゃったので、わざわざゴムで敵を攻撃する必要がないんですよね。よっぽどのことがないと人を殺”せ”ない。1はまだその辺りが気を配られていて、快適さと引き換えにヴォイドアウトの陳腐化が起こってしまったと思います。英断とすべきか悩ましいところですけどね。ゲームとしては確実に遊びやすくなりました。一方、じゃあヴォイドアウトとかの設定どうしたいの?となると、1よりも徹底したなにかを個人的には感じられませんでした。
ストーリー面もそうですが、1はなにかやってやろうという気概はあったと思います。当然、2も同じようにして作ったのだとは思いますが、いかんせん、ゲームの快適さであったり、ストーリーの結局なんだったんだろうというのも含めて、なんで世間がこんな高評価なんだろうな、というのは否めないなというのが率直な感想です。1も別に好きなゲームだったというわけじゃないんですが。でもゲームルーデンスのルーデンスはルーデンスくん人形でホモ・ルーデンス知ったのでそこから取ってます笑
デススト1はよくも悪くも賛否が沸き起こるゲームでした。2は絶賛が多すぎたから変更した、と小島監督はおっしゃっていたようですが(ソース探しても見つかりませんでしたすみません)、今回は賛否両論というかコメントがあんまりできないゲームという微妙な立ち位置になってしまったと思います。ゲーム面に関しては否定的な意見は出しやすいですが、ストーリーに関しては特にそうですね。よくわからないな、という感想は賛否じゃないです。よくわからない以上でも以下でもなく。
というわけで、こんだけ長々と書いてきましたが、デススト2、よくわからんかった。という。いやすみませんここまでお付き合いしていただいたのに。コメントでこういう読み方あるよとかこういう見方あるよとか、自分でももうちょっと漁ってみてあぁなるほどね、とかあったら感想も更新したいなと思います。
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