It was a human感想・レビュー|内省的で露悪的で悪趣味。それでいて眩しかった。

年を取ったからだろうか。真っ直ぐすぎる作品にはどうにも弱くなってしまった。なんでも、年のせいにはしたくはないんだけれど。

あまりにも真っ直ぐに過ぎるので、人によっては劇薬にすらなりうる。本作の結末は特にそうだ。むしろ少しくらい甘えてもいいんじゃないかな、と思えるほどには。

酷く内省的で自罰的な本作は、真っ直ぐな結末ですらそういった内向きな態度から逃れられているようには見えない。それでいて眩しい選択を取れるのだから、強すぎる作品である、と感じる人もいるだろう。それが先程触れた「人によっては劇薬にすらなりうる」という文の意味だ。

さて、いい加減御託はいいだろう。というか、本当はこういう言葉を書くのは一方ではよくないんじゃないか、と考えている節もある。作品の受容というのは、まず真っ先に自分自身が今までの自分自身の経験によってのみなされるべきだ、と僕自身は考えているからだ。ただ、短い作品ながら、個人的には好ましい作品であったことが伝わってくれたら嬉しい。

目次

尋問し対話をして2つの質問の答えを出す

2つの質問の答えを出す。本作はこれが目的だ。ゲームの最初に説明されるが、まさしく本作はそれに則ったゲームである。

その質問に至るまでの仮定に「尋問」という形で勇魚虎魚という少女と対話をしていく。

このゲームの舞台は、佐賀県嘉瀬市にあるホテルで起きた殺人事件から始まります。警察がかけつけた際、身元不明の男性2名の遺体が発見されました。遺体の死因はそれぞれ、全身の打撲による外傷性ショックと窒息死と推定されています。また、現場で容疑者と見られる勇魚虎魚が、糸ノコギリを手にして立っているのが見つかりました。捜査本部は彼女をバラバラ殺人の犯人と考えました。

本作の主人公は、軍に所属する中佐で、任務として容疑者である勇魚虎魚の尋問を行います。彼女がなぜ2名の男性を殺害したのか、どのような方法で犯行に及んだのかを詳しく聞き出すことが求められます

ゲームの導入部分は上記した通り。最初の表現からショッキングなものもでていて、これまた随所にそういったグロテスクな表現も見受けられる。上の画像も苦手な人向けにサイズを小さくしておいたので、みたい人はクリックして大きい画像を。そうでない人はクリックしないでおこう。

正直なところこれが全てなので、これ以上ゲーム性という部分について触れる点がない。ゲーム中に出る選択肢を選らんでその先のストーリーを見て、というシンプルなものとなっている。

ちなみに、尋問形式のADVとなっているが、どちらかというとノベルゲーの趣が強い。推理とかそういう感じの作品ではなく、尋問という形式を取っているがむしろ「対話」としたほうがよほどしっくりくる。だから、推理ものとかそういう風な期待をしてしまうとかなり肩透かしを食らってしまうことに。個人的な感想としては美少女ゲームに近いと思う。上でも述べたがいわゆるノベルゲームだ。

またsteamのレビューではライターのファンであることがいい、と書かれていて、実際匂わせの設定などもあるが、個人的には他作品未プレイの状態ですんなり入れたしそこまでわけわからんな、という感じではなかった。個人的には真っ直ぐな作品である、という評価をしているのでわかる通り。もちろんわからない単語もでてくるし、文をそのまま捉えていいのか判断しかねるところもでてくるが、大筋としてはわかりやすい部類に個人的には入ると思う。

その他注意といえば、本作はオートセーブに対応しているが、オートセーブにしか対応していない。その分スロットはたくさんあるが、ロードもすぐには行えない仕様となっているので、若干選択肢の別パターンを見るのが手間とはなっている。

最後に本作は実況が可能でもあるそう。ただ、作者はそうは言っているけれど、個人的にはここまで内省的なお話だから、気になった人はぜひ”自分だけ”の閉じた世界でプレイしてほしいなぁ、というのが率直な気持ち。値段も安いし、人とやる楽しさを決して否定はしないし自分も実況動画を見るけれど、ゲームは自分”だけ”の世界で閉じた楽しみというのが間違いなくあると思うので、もし実況で、という人がいたら自分でプレイしてみてください。

AI絵について

本作の背景にはAIが使われている。最近、AI絵というとすぐに反応して嫌がる向きも多い。僕個人としてもそれはわかる。

実際、技能というのは一朝一夕で身につくものではなく、長い時間をかけてようやく人間の場合は身につけるに至るものだし、それこそ人間の場合、様々なものに習熟するというのは不可能ではないものの途方もない時や、あるいは”才能”といったものも必要なのは確かだろう。

ただ、本作におけるAI絵の使用というのは作者なりの理由があって使用しているものであり、もちろんそれを否定したい気持ちを否定することは僕にはできないけれど、決してAIアートの利用という点のみで忌避するべき作品でもないな、というのが個人的には思ったことです。理由は若干ネタバレになるので触れませんが、敢えてAIアートを使いたかった気持ちも尊重すべきだろうと思います。

以下ネタバレありの感想

管理人のネタバレ感想

さて、ゲーム部分としては上記で全てなので、これ以上とくに言うことはない。加えて、導入の文章が紹介文のような体裁を(個人的には)取っているので、ゲームの紹介はこれにて終了。どちらかというとネタバレの感想を書きたくて仕方がなかったので、むしろ自分にとってはここからが本題となる。

まずは僕の反省点から。僕はどうにも、今まで作品をそれなりの数摂取してきたという自負はあるんだけれど、一方でその、摂取したものをついつい新しい作品にも投影してしまう。あ、この作品これっぽいニュアンスあるな、とか。

そして本作で言えば真っ直ぐさや人間讃歌の部分にどうしても瀬戸口簾也を感じずにはいられなかった。彼の作品も内省的で、だけどどうしようもなくキレイな部分もあって。人間は醜いだとか、そういうことを言うのは簡単だし、それだけで終わってもいいんだけれど、人間は醜いんだと断じてなにかを語ったかのような態度。そうしたものは、僕はどうにも嫌いだな。だから、それだけに終わらなかった本作も、僕は好ましいと思える。

最後、勇魚虎魚は自身のあまりにも自罰的な態度を自ら倒すことによって、再び”希望”を持った化け物――人間となる。

しかし、この希望を得る代償はあまりにも大きすぎた。彼女の左手の薬指。彼女がこの世界を作るのに至った最大の理由であるそれは、彼女にとっては一番許せないものだった一方で、間違いなく一番大切なものでもあった。それを代償にようやく彼女の自罰的な態度、作中では「罪。弱さ。惨めさ」とされていたものを倒すに至った。

なぜ、左手の薬指だったのか。それは”彼”が「罪。弱さ。惨めさ」をすら愛してくれていたから。だから彼女が彼女を倒すためには、それを犠牲にしないことには折り合いをつけることができなかった。

やはり本作はとても内省的なお話だと思う。だって、倒したはずの罪が「なんとなく折り合いをつけるのじゃダメだったのか」なんていうのだから。 

ただ、そうしてしまうと彼女は人間として生きることができなかった。彼女は彼女自身と向き合わなければ、この世で最も大切だった人の死という経験から逃れることができなくなってしまっていたのだ。

しかも元々彼女は自身のことをダメなやつだと呼称していて、生来の性格、あるいは彼女自身の家庭環境も原因とはなっていそうだが、自罰的な態度があまりにも馴染みすぎてしまっていた。だから、彼女は彼との子供を立派に育てたはずなのにも関わらず、根っこってそういうところにあるものでしょう?といって、彼女自身の罪と対峙した。

そうして最も大切なものを犠牲にしてまで彼女の罪・弱さ・惨めさを倒したが、彼女の根本的な動機である「人間になりたい」という気持ち。それも個人的にはしんどく思えてしまった。

彼女が自身の罪と対する前、彼女の経験――そして唯一誇れるものだっただろう――に、人間とは「夢と、希望の化け物だ!」そしてそれに「ならなければいけないんだ」と伝える。ならなければいけない、というのも僕自身としては自罰的な態度から逃れることができていないように思えて、結局、勇魚虎魚という少女は、願いを叶えた先もやはり彼女自身として、一般的に考えるような幸せというのは生きている限りはないんじゃないか。そうとすら思えてならない。

結局、罪を殺したところで同じ勇魚虎魚なのだから、それはそうなんだろうな、とはなるし、僕自身としても「乗り越える」とか「受け入れる」とかいったことに対してどういった態度を表明していいかそれこそ折り合いがついていないことがある。突っ込んで話したいが長くなるので割愛。

ところで誇りと今触れたが、作中で誇りという言葉は今僕が触れた部分以外ででてくる。それが荒れ果てた家での罪側の勇魚虎魚の言葉だ。

本作は最後、罪と決意が対峙することになる。そして、罪側の意識が荒れ果てた部屋を「誇り」だといった。この点については2通りの解釈が考えられる。一つは私がいなくなったことで汚れた部屋になったという、罪自身の存在定義。これも悪くはない。そしてもう一つが、彼を殺した理由そのもの。つまり彼女自身の罪の形。

どちらで解釈するにせよ、「誇り」という言葉からは程遠いように思える。ただ、誰がなんと言おうと個人の意志だという彼女の言葉から察するに、罪を永遠に自覚的に引き受ける、作中の言葉で言えば彼女自身の役割が定義されたというふうにするのが自然だ。

罪側の意志ですらこれだけ真っ直ぐなのだから、それを打ち破った決意側――彼女の真っ直ぐな選択や生き方、それが今まで失敗の連続だったとしても、眩しいと思える。きっと彼女は、これからも「ボウケン」を続けていくことになるのだろう。それが最高に楽しいものでありますように。たった2~3時間程度の小品ではあるものの、僕個人としてもこの言葉が正しいものであることを願わざるを得ない。

けれどもやはり、一方では強い生き方だな、と感じてしまう。自分の弱さと向き合って、しかもそれをただ倒すのではなく、彼女自身の中に定義し直した。それまでは勇魚虎魚の中でどう定義づけもできなかったもの・感情だったのだろうと強く思う。真っ直ぐすぎるし、あまりにも眩しい。

だけど、僕はこうした強い作品がどうしようもなく好きなんだろう。『It was a human』もそうだし、瀬戸口氏の話を一瞬出したが、彼の作品にしてもそうだ。もちろん強さのベクトルは違うとは思うが、僕にとってはないものねだりでキレイなものに映ってしまうのかもしれない。

ただ、彼女の強さにしても、他者の存在は間違いなく必要だった。もし、喪ったのが薬指だけでなく娘も含めてだったとしたらゾッとする。全てを喪った強さを描く作品も悪くはないが、僕はここには希望が残っていると思いたい。本当に一人きりで生きることを受け入れることは、果たして強さと言えるのだろうか。と、これは全く作品とは関係ないし、これはこれでまたとんでもなく色々と考えることが多そうなので脇に置いておく。

彼女自身の本当の願いは、ほんの些細なものだった。些細な日常や退屈な毎日の中にあって、それは他者との関係性の中に成り立つ。僕は些細な願いが彼女の動機だったとしたら、本作の内省的に過ぎると作者からも評されていた作品も納得ができる。

というのも、勇魚虎魚は自罰的であるし事実そうした態度になることもよく分かる経験をしているが、きっと彼女はなにかを犠牲にしたり、あるいは倒すことによって人間にならない限り、”殺した”相手との眩しすぎる”経験”を認めることができなかったんじゃないか。そこまでして、始めて彼女は願うことができた。夢や希望を持つことができた。

悲しいのは、僕がこうした言葉を書いているときにも、接着剤のすえた匂いのする不格好なキリスト像を、太陽に見せつけてやるかのように立たせている光景が頭の中に浮かんでしまって、あァ、僕にとっての作品の受容は今後もずっとこうした風にならざるを得ないのかなぁ、なんて諦観めいたものが去来することくらいです。いつかそうした部分とも向き合いたいものですね。

7/28日追記

何度か自分の感想を読み直していて、「定義」づけやその周辺についてちょっと追記。

本作、最後には彼女の存在と自分の存在を定義づけることによって戦闘に入る。そしてこの定義づけは、上の感想にも書いたように、罪側の意識が荒れ果てた家を見て、それこそが彼女がフェアだということだったんだろう、自身の存在を改めて定義づけしなおす。

罪と対峙することのできなかった選択肢に関しては、決意が自身の存在をついには定義づけすることができなかった。断罪者として彼女を殺すというエンディングは、決意側が自身の存在を”彼”と誤って定義づけたことによるもので、形だけの安寧に過ぎない。ただ、あのエンディング別の種類ありそうなので、うーんちょっとどうなんだろうな、という感じ。というのも、どちらも赤の選択肢を選んでも、自分が世界の主側として定義づけられてしまうので、意図されたものなのかが判別できない。

定義づけについて話を戻す。本作における「定義」とは、「役割」を自覚的に引き受けること、だと僕は定義した。

荒れ果てた家を誇りだと言った彼女は、整頓された家ではなく、言い換えれば彼女自身が殺したのではないという現実逃避的な世界ではないもの(荒れ果てた家)を彼女自身が望んだ世界に残していたのを間近で見ることによって、勇魚虎魚という存在の罪の部分を定義した。それこそが彼女の存在理由・証明でもあるからこそも「誇り」という言葉だったのではないだろうか。

そして決意側の存在定義は、自罰的な罪の意識――あまりにもおぞましく傍から見ていればそれこそがバケモノじみたものを心の内に飼っていた一方で、彼との出会いで得た様々な経験。水族館や遊園地、彼との子供であったり、そういった経験が積み重なったことで、自罰的な意志の一方で、生きたい。作中の言葉で言えば夢や希望を持った化け物になりたいという決意があった。

彼女の内なる戦いは、どこまでいっても自己完結的なものに過ぎない。けれど、決意が勝つに至ったのはそうした世界においても他者性を帯びた経験であった。このことをこそ夢や希望と言わずしてなんといえばいいのだろうか。

人間誰しも、大小はあるが、自罰的な勇魚虎魚の意識は持っているだろう。それでも、生きたいと願ってしまうという多面性、矛盾。勇魚虎魚という人間だったものの願いは、それを定義づけして自ら自覚的に引き受けるという、非常に困難な作業を通す必要があり、そしてそこまでやることで――最も大切だった、彼とのカタチをも犠牲にすることにより、罪・自罰的な感情に押しつぶされることなく、かといってそれらの意識を完全になくすことなく、共生することができるようになった。

本作における人間とは、夢と希望を持った化け物。勇魚虎魚による人間の定義は、彼との”経験”によって恐らく醸成されたために、”彼”を殺したのだ、という罪の意識がある以上、勇魚虎魚が人間だったものであるのは当然のことと言える。もちろん、おじいちゃん、あるいは時計卿だろうか、そことの経験もあるだろう。また、彼女自身の中で人間だったものとして罪の意識が肥大化したのは、母親の下にいったときに”彼”から向けられた視線が「人間だったもの」としてだったので、最後のグロテスクな化け物はそうして経験から定義づけられたものなのだろう。

そうしてお互いに定義付け、対峙し、文字通り全てを尽くして戦った。それでは、彼女のもとには何も残らなかったのだろうか。それは違う。紛れもなく”彼”との経験によって、”彼”の介在なしに立派に育てあげた娘がいて、その経験こそが彼女自身の決意を支えた。

酷く内省的で露悪的に見えた本作において、これは救い以外のなにものでもないと僕は思う。だからこそ、強すぎる作品でもあった。

本作は勇魚虎魚という少女が強かったから、そして彼女の経験が彼女を支えてくれたから、対峙することができた。でも、それができない弱さもある。本作は人間になることに焦点を当てた作品だから、別にその結末には全く異論はないし、着地すべき点に着地したのだと思う。本作はそれでいい。

その点で、人によっては劇薬となりうると書いたが、逆に救われる人もいるのかもしれない。実際、僕はそんな経験はないんだけれど。でももしも『It was a human.』をプレイして救われたような感覚を持つ人もいたら、僕はそれを好ましいと思うし、もしも本作を定義づけして自覚的に引き受けられていないときに、本感想を読んで定義づけされたものとして取り込んでもらえたのなら、作品を作った人間でもないのにおこがましいけれど、僕としては嬉しいと思う。

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